七月革命を経て解禁される。これを受け、ベルリオーズが「ラ・マルセイエーズ」をオーケストラ向けに編曲する(これは現在にいたるまで演奏されている)。, 1848年 中華人民共和国の国歌『義勇軍行進曲(進行曲)』は、1935年の中国映画「風雲児女」主題歌として作曲された楽曲。, 文化大革命の最中においては、毛沢東を讃える『東方紅』が事実上の中国国歌として扱われた。, 1982年12月の全国人民代表大会で現在の歌詞に戻された。2004年に中華人民共和国憲法が改正され、『義勇軍進行曲』が中華人民共和国の正式な国歌であることが明記された。, 起来! 不愿做奴隶的人们! 中华民族到了最危险的时候 冒着敌人的炮火,前进! 第五共和政でも国歌に定められている。    ⇒ 3. 第三共和政樹立。当初、政府は「ラ・マルセイエーズ」は革命的すぎるために他の歌を作って国歌にしようと模索していた。, 1879年2月14日 恐怖政治。この期間には、以上に記した多くの人々がギロチンで処刑された。, 1795年7月14日 冒着敌人的炮火,前进! 第二次世界大戦でヴィシー政権樹立。ドイツ占領下では「ラ・マルセイエーズ」を歌うことは禁止された。 しかし、そうした動きに反対する議員らの後押しにより、「ラ・マルセイエーズ」は再び国歌に制定される。, 1882年 フランス軍の再編が行われ、中央軍、北部軍、ライン軍 l'Armée du Rhin の 3 つにまとめられる。 これがフランスの民衆を刺激し、好戦的な雰囲気が強まる。, 1791年12月14日 中華民族に迫り来る最大の危機 この歌を歌いながらマルセイユ義勇兵がパリに到着する。強い南仏なまりで歌われるのを聞いたパリの民衆はマルセイユの歌だと思い込み、「ラ・マルセイエーズ」と名づけた。, フランソワ・リュード作「1792年の義勇兵の出発」(別名「ラ・マルセイエーズ」) 軍楽等 (聴くには曲名をクリックしてください). 参考:モーリス・アギュロン著『フランス共和国の肖像-闘うマリアンヌ 1789~1880』、阿河雄二郎他訳、ミネルヴァ書房、1989年, この本はフランスを象徴する女性像「マリアンヌ」や自由の女神について書かれた本なので、その一環としてこの凱旋門の彫刻も自由の女神として取り上げられているが (p57)、注では「被り物はフリジア帽だが、その上に鷲がとまっている」といった「両義的なシンボル」が混在しており、一義的に自由の女神とはいえないことが示唆されている。他方、, フランス革命はフランス以外の国の専制君主にとっても脅威であり、当時のヨーロッパ諸国の専制君主は姻戚関係で結ばれていた(たとえばルイ16世の王妃マリー・アントワネットの兄は神聖ローマ皇帝レオポルト2世だった)こともあって、, これは、ルイ16世が自分に向けられていた批判をかわす意図もあって、オーストリアとの戦争を議会に提案したことを受けて行われた。, ディートリッヒ市長は、ストラスブールに駐留するフランス軍の将校をたびたびサロンに招いており、特に前年からストラスブールに来ていたルージェ・ド・リール大尉とはフリーメイソン仲間でもあった。, 一説によると、修辞学の教師だったアントワヌ・ペソノー Antoine Pessonneaux 神父が若者のための歌詞がないのを残念に思って 7 番の歌詞を作り、, 1793年12月29日には「ラ・マルセイエーズ」を依頼したストラスブール市長ディートリッヒ男爵。, 1794年1月4日には「ラ・マルセイエーズ」が捧げられたライン軍司令官リュクネール元帥。. 前进! 前进! 进!, 起て!起て!起て! 毎个人被迫着发出最后的吼声, いざ立ち上がれ 隷属を望まぬ人々よ! 982年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会において、田漢が作詞した歌詞が再び国歌として決定された。その後、2004年には中華人民共和国憲法が改正され、『義勇軍進行曲(行進曲)』が中国の正式な国歌であることが明記された。 関連ページ (Marche des Marseillois chantée sur diferans theatres, Londres, W. Holland, 1792, Gallica), 「マルセイユ行進曲」Marche des Marseillois と書かれている(Marseillois は Marseillais の古い綴り)。, 1792年7月29日 二月革命。再び「ラ・マルセイエーズ」が脚光を浴び、画家イジドール・ピルス Isidore Pils が「ラ・マルセイエーズを歌うルージェ・ド・リール」(前掲の絵)を描き、これは翌 1849 年に完成する。, 1871年 (観光絵葉書の一部を拡大したもの。筆者蔵), 右手を大きく上げているのは、前掲のイジドール・ピルスの絵のポーズを踏まえたもの。左手に握っているのは、フランス国旗の柄の部分で、国旗が体の後ろではためいている。, 1914~1918年 第一次世界大戦勃発後の最初の革命記念日にあたるこの日、ルージェ・ド・リール(1836 年にパリ郊外ショワズィ=ル=ロワ Choisy-le-Roi で 76 才で死去)が国歌ラ・マルセイエーズの作者として英雄扱いされ、遺灰がナポレオンなどの眠るオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に移される。, ルージェ・ド・リールの遺灰を移す行列を写した当時の写真 しかし、実際にはディートリッヒ男爵が歌ったことが記録に残されているので、この絵は史実とは異なっていることが指摘されている。 中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者である聶耳は、1912年(明治45年)2月15日、雲南省昆明市で誕生しました。父は漢方医で薬局を営み、母と3人の兄、2人の姉で生活を送っていました。 4才のときに父親を肺結核で亡くし、治療のため家の財産を使い果たしてしまいました。このときの葬儀の費用を親戚友人の援助を頼らなければならず、母が引き続き薬局を経営したが、貧しい生活を送っていました。 親戚友人から学費を立て替えてもらい、昆明県立師範附属小学校に入学、勉学に励み、 …    ⇒ 2.「ラ・マルセイエーズ」に名前が変化(マルセイユ→パリ) この 2 枚の切手を見ると、ラ・マルセイエーズがフランスでどのように視覚的にイメージされているのかがわかる。 フランス革命勃発 6 周年にあたる日、国民公会において「ラ・マルセイエーズ」が国歌に制定される。, 1804~1814年 我等の血と肉をもって 我等の新しき長城を築かん ,, powered by Quick Homepage Maker 5.2 based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. 初期出版の楽譜に作曲者名が記されていないことなどから、作曲者は不明とされるが、ルージェ・ド・リールの別の詩『自由への讃歌 (L'Hymne à la Liberté) 』に曲を付けたことのある作曲家イグナツ・プライエルこそが真の作曲者ではないかという異説もある。 万人が心を一つにし (※)chanson(歌)の略。ただし、より正確には、おそらく l'hymne marseillaise (マルセイユの歌)の l'hymne(歌、讃歌・頌歌・国家。当時は女性名詞として使われた)の略 (Cf. 進め!進め!進め!, アヘン戦争(1840年)、日清戦争(1894年)などの結果、清国は欧州列強の草刈り場と化した。イギリスが長江流域を勢力圏に収め、九龍半島および威海衛を租借地とすると、ロシアは満洲からモンゴル・トルキスタンを勢力圏に、旅順と大連を租借地とした。, さらにフランスが広東省・広西省を勢力圏とし、広州湾を租借地とすると、ドイツが山東省を勢力圏に、青島(膠州湾)を租借地とした。諸国はそれぞれ海軍基地を築いて、東アジアへの拠点を「濡れ手に粟」的に次々と手に入れていった。, 上の挿絵は、これらの欧州列強による勢力分割の様子を描いた有名な風刺画(出典:Wikipedia)。学校の教科書にも頻繁に掲載された。, 挿絵の中では、左からイギリス、ドイツ、ロシア、フランス、日本を表した人物が、CHINE(中国)と書かれたパイの分割を行っている。後列で手を挙げ困惑している人物は清国。, なお、この時期アメリカは内戦(南北戦争)による混乱で中国進出に出遅れている(参照:リパブリック賛歌 アメリカ19世紀の歴史)。, やがて辛亥革命が起こると、翌1912年1月1日には中国の南京で中華民国が樹立。清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は2月12日に退位し、清朝276年の歴史は幕を閉じた。, 1912年1月1日、革命家の孫文を臨時大総統として成立した中華民国(Republic of China)。その国歌は、孫文の三民主義思想に基づき作詞された『中華民国国歌』。, 三民主義とは、民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ思想であり、中国国民党の基本綱領として採用された。, この『中華民国国歌』は、中華人民共和国成立後の今日においては、台湾において国歌として歌われており、幼稚園児の頃から歌われる教育体制がとられ、テレビ放送などでも放送開始時にオーケストラ演奏による国歌が流される。, なお、オリンピックやワールドカップなどの国際試合では、中華人民共和国に配慮するため、国歌が演奏されるべき場面で、『中華民国国歌』の代わりに『国旗歌』が演奏されている。, 1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家、中華人民共和国。建国当初は暫定的な仮の国歌として、抗日映画「風雲児女」の主題歌である『義勇軍進行曲(行進曲)』の使用が人民会議で決定されたが、その後も結局正式な国歌は制定されず今日に至っている。, 1966年から1976年まで続いた文化大革命の最中においては、作詞者の田漢が迫害され、『義勇軍進行曲(行進曲)』の歌詞は歌われなくなった(演奏のみ)。代わりに同時期には毛沢東を讃える『東方紅(とうほうこう)』が事実上の国歌となった。, 学校や職場では『東方紅』が朝一番に必ず斉唱され、ラジオ放送では『東方紅』で始まり、革命歌『インターナショナル』で締めくくられる構成が日常となった。一説には、むしろ『インターナショナル』の方が第一国歌的な扱いを受けていたとの評価もあるようだ。, 文化大革命の終結後(1978年)は『義勇軍進行曲(行進曲)』に新たな歌詞がつけられ、毛沢東や中国共産党を讃える政治色の強い国歌として数年間歌われた。, 982年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会において、田漢が作詞した歌詞が再び国歌として決定された。その後、2004年には中華人民共和国憲法が改正され、『義勇軍進行曲(行進曲)』が中国の正式な国歌であることが明記された。. La marseillaise(ラ・マルセイエーズ)は la chanson marseillaise(マルセイユの歌)という意味ですが(※)、こう呼ばれるまでには紆余曲折があります。, このページでは、フランス革命の歴史と関連させながら、最初は「ライン軍のための軍歌」と題されていた「ラ・マルセイエーズ」の歴史を 3 つの時期にわけて年表風にまとめてみました。, ⇒ 1.「ライン軍のための軍歌」の誕生(ストラスブール) 把我们的血肉,筑成我们新的长城! ルージェ・ド・リール没後100年を記念し、2 枚の切手が発行される。, 左の切手は前掲のバルトルディ作の彫像、右の切手は凱旋門に彫られたリュード作「1792年の義勇兵の出発」(別名ラ・マルセイエーズ)の上半分(勝利の女神)をもとに描かれた絵。「RF」は République Française(フランス共和国)の略。 テノール歌手でもあった市長が自ら歌を歌い、市長の妻がクラヴサンを演奏した。, イジドール・ピルス画「ラ・マルセイエーズを歌うルージェ・ド・リール」 「ラ・マルセイエーズ」の 7 番の歌詞が作られる(作者不明)。 「マルセイユ行進曲」Marche des Marseillois と書かれている (Marseillois は Marseillais の古い綴り) 。. 文革の混乱が収まった1982年12月の第五次全国人民代表大会第五回会議で、田漢の作詞によるに元の歌詞に戻されました。2004年には、中華人民共和国憲法が改正され、中国国歌は「義勇軍進行曲」であることが明記されています。 敵の砲火に立ち向かうのだ! フランス革命以降, 1791年6月20日 ここに添付している楽譜は、東京音楽隊が保有する「海軍儀制曲總譜」記載の楽譜を基に、現在の編成に合わせて編曲したものです。 海上自衛隊音楽隊の行進曲「軍艦」は、この楽譜を使用して演奏しています。 文:谷村政次郎(第11代東京音楽隊長) 文革の混乱が収まった1982年12月の第五次全国人民代表大会第五回会議で、田漢の作詞によるに元の歌詞に戻されました。2004年には、中華人民共和国憲法が改正され、中国国歌は「義勇軍進行曲」であることが明記されています。 1792年7月29日 この歌を歌いながらマルセイユ義勇兵がパリに到着する。強い南仏なまりで歌われるのを聞いたパリの民衆はマルセイユの歌だと思い込み、「ラ・マルセイエーズ」と名づけた。 月 左手前の旗をたくさん飾った馬車に遺灰が収められている。, 1936年6月27日 翌日、ディートリッヒ市長のサロンにおいて、「ライン軍のための軍歌」が初めて演奏される。 南仏モンペリエで「憲法友の会」le club des Amis de la Constitution の熱心な参加者だった准将フランソワ・ミルール François Mireur(1770-1798)は、義勇兵を組織するために前日にマルセイユに来ていたが、この日、「ライン軍のための軍歌」をマルセイユで初めて歌う。, これが非常に評判を呼び、歌詞が印刷されて配られ、マルセイユ義勇兵はこの歌を歌いながらパリまで行進した。, 1792年に出た楽譜の挿絵。 偶然かもしれないが、ルージェ・ド・リールは右手、勝利の女神は左手を大きく上げているのが面白いところ。そういえば、バルトルディ作のニューヨークの自由の女神像も、松明を持った右手を高く上げている。手を上げると、力強い動きが表現され、迫力が出るようだ。, 1940年 中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」の楽譜の表示と印刷、midiやmp3とmp4,iPod用ファイルの無料ダウンロードができます。 Band of TOKYO)Channel 59,884 views 5:10 ルージェ・ド・リールは 6 番までしか作っておらず、7 番の歌詞の作者は諸説ある。, 1793~1794年 (Le Départ des volontaires de 1792, aussi appelé La Marseillaise par François Rude, Wikimedia Commons), パリの凱旋門に彫られた彫刻「1792年の義勇兵の出発」。通称「ラ・マルセイエーズ」または「リュードのラ・マルセイエーズ」 La Marseillaise de Rude(リュードは彫刻家の名前)。フランス革命のマルセイユ義勇兵を描いたものだが、写実的ではなく、全員古代の格好をしている。義勇兵たちの上に彫られているのは、自由の女神とも勝利の女神とも解釈できる。自由の女神と解釈できるのは、たとえばドラクロワの「民衆を導く自由の女神」等と同様、伝統的に自由の女神のシンボルとされてきた「フリジア帽」をかぶっているため。同時に、勝利の女神とも解釈できるのは、たとえばギリシア神話の勝利の女神ニーケーを表現した「サモトラケのニケ」(ルーヴル美術館蔵)と同様、勝利の女神は翼が生えているとイメージされきたため。リュードは 1833 年にこの凱旋門の彫刻を依頼され、1836 年に完成しているが、おそらく自由の女神と勝利の女神が登場するラ・マルセイエーズの 6 番の歌詞を意識しながらこの彫刻に取り組んだはずである。, 1792年 ? 第一次世界大戦では国威発揚のために「ラ・マルセイエーズ」が大いに歌われた。, 1915年7月14日 彫像の作者は、かの有名なニューヨークの自由の女神像を作ったことで知られる、オーギュスト・バルトルディ Auguste Bartholdi。, ロン=ル=ソニエのルージェ・ド・リールの彫像(バルトルディ作) 敵の砲火に立ち向かうのだ! このコーナーの曲は私が耳コピーとか楽譜があってもメロディーだけだったりの状態でいい加減に編曲したものが多いので、原曲と少々違うとか和声が間違っているとかいう御批判があるかもしれませんが、ご容赦ください。 もとはルーヴル美術館の所蔵だったが、ストラスブール歴史美術館蔵に譲られた。, 1792年6月22日 QHM. ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、アントワネットの兄の神聖ローマ皇帝レオポルト2世を頼ってフランスから逃れようとするが、ヴァレンヌで捕まってしまう(ヴァレンヌ逃亡事件)。 (フランス国立図書館蔵 Gallica), 軍人を中心とした多くの人々が壮麗な行列を組み、ルージェ・ド・リールの遺灰をパリ郊外ショワズィ=ル=ロワからオテル・デ・ザンヴァリッドに移すときの様子を写した一連の写真が残されている。この写真は、凱旋門の前、ちょうどリュード作「1792年の義勇兵の出発」の彫刻(前掲)が見える場所で撮影されたもの。 行進曲「サンブル・エ・ミューズ連隊」 海上自衛隊 全音楽隊 - Duration: 5:10. ただし、人心掌握・懐柔のため、またレジスタンス側の歌となるのを防ぐために、わざと政府関係者のいる場所などでは許可され、歌われた。, 1958年~ 『ラ・マルセイエーズ』(仏: La Marseillaise、フランス語発音: [la maʁsɛˈjɛz] 発音例)、または『マルセイユの歌』は、フランスの国歌である。元はフランス革命の際の革命歌で[1]、マルセイユの連盟兵(義勇兵)が隊歌として歌って広めたことによる。, この歌は、フランス革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵 (Philippe Friedrich Dietrich) の要望で、当地に駐屯していた工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したというのが定説である。このとき付けられたタイトルは『ライン軍のための軍歌 (Chant de guerre pour l'armée du Rhin) 』 であった。リール大尉はこの曲を当時のライン方面軍司令官ニコラ・リュクネール元帥に献呈した。, その後、この歌は全国にパンフレットという形で流布され、テュイルリー宮襲撃事件の約2週間前にマルセイユ連盟兵がパリ入城したときに口ずさんでいたことをきっかけとしてパリ市民の間で流行した。このために元々の題名ではなく、現在の『ラ・マルセイエーズ[注釈 1]』という形で定着した。さらに1795年7月14日に国民公会で国歌として採用されたのである。, 初期出版の楽譜に作曲者名が記されていないことなどから、作曲者は不明とされるが、ルージェ・ド・リールの別の詩『自由への讃歌 (L'Hymne à la Liberté) 』に曲を付けたことのある作曲家イグナツ・プライエルこそが真の作曲者ではないかという異説もある。また、現在7節あるうちの最後の節(「子供の歌」)は同年10月に付け加えられ、ジャン=バティスト・デュボワ、マリー=ジョゼフ・シェニエ(詩人)、デュボワ神父の作だと言われているが、フランス政府の公式見解としては7番(7節)の歌詞は作者不詳とされている。, 1804年、ナポレオン・ボナパルトが皇帝になると「暴君(専制君主)を倒せ」という部分の暴君(ティラン)は世襲君主全般を指すことから、国歌を『出陣の歌』に変更し、『ラ・マルセイエーズ』は第一帝政から王政復古にかけては、特別な許しがある場合を除いては公の場で歌うことは禁止されていた。1830年の七月革命以降は晴れて解禁となり、第三共和政下で再び国歌に制定され、同年にベルリオーズが独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲を施した。第四共和政の「1946年憲法」及び第五共和政の「1958年憲法」のいずれにも『ラ・マルセイエーズ』を国歌として定める旨が明記されている。, 2015年11月13日にパリ同時多発テロが起きたときには「フランスとパリ市民との連帯」をあらわすためなどの理由で『ラ・マルセイエーズ』の演奏がなされた。事件当日に開催された国民議会臨時会合では犠牲者への黙祷の後、誰ともなしに『ラ・マルセイエーズ』が歌われだし大合唱となった。国民議会で議員によって『ラ・マルセイエーズ』が歌われるのは第一次世界大戦終結後の以来である[2]。また同月17日ベルサイユ宮殿で大統領の招集で開催された元老院、国民議会の両院合同議会でも両院議員によって『ラ・マルセイエーズ』が合唱された[3]。また元老院でも同様に黙祷の後に『ラ・マルセイエーズ』の合唱が行われた。事件から2週間後の11月27日にオテル・デ・ザンヴァリッドで開催された追悼式典ではベルリオーズ編曲の『ラ・マルセイエーズ』が演奏された[4]。, このほか民間レベルでも、11月15日にノートルダム大聖堂でのアンドレ・ヴァン=トロワ枢機卿司式の追悼ミサではオルガニストのオリヴィエ・ラトリーよる編曲のオルガン版『ラ・マルセイエーズ』が演奏された[5]。11月17日のウェンブリースタジアムでのサッカーフランス代表とサッカーイングランド代表の親善試合などでも『ラ・マルセイエーズ』が「テロの犠牲者への追悼とフランスとの連帯」を表すために演奏された。このときには電光掲示板に歌詞が表示され誰もが歌えるように配慮がなされた[6]。, ロベルト・シューマンの『二人の擲弾兵(1840年)』ではナポレオン戦争における侵略者フランスの象徴として引用されている(リヒャルト・ワーグナーの同名曲<1840年作>でも)。また、シューマンの『ウィーンの謝肉祭の道化』の第1曲にも引用されている。1880年にチャイコフスキーがナポレオンのロシア遠征をロシア側から描いた「序曲1812年作品49」においては侵略者フランスの象徴としていっそう強烈に引用されている。一方、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の「民衆の歌」の歌詞(例「再び奴隷となるのを欲さぬ人民」「殉教者の血がフランスの草地を濡らすだろう」)には影響がみられ、「市民革命」の音楽として位置づけられている。また宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』でも「バスティーユ襲撃」を題材にした「バスティーユ」あるいは「バスティーユの戦い」と題された場面で使用される音楽は『ラ・マルセイエーズ』のフレーズを借用している(実際にはバスティーユ襲撃があった1789年7月14日時点では『ラ・マルセイエーズ』は作曲されていない)他、フィナーレでのラインダンスにおいても、アップテンポでマーチ調にアレンジされ、間に『76本のトロンボーン』や『ファランドール』のメロディーを挟んだ(公演毎に変化あり)ものが恒例として使われる(必ずしも全てのバージョンにおいてではない)。, また、冒頭のわかりやすいメロディは、映画『紳士は金髪がお好き』の中の歌曲「ダイヤモンドは少女の大親友」に引用されている。またビートルズの"All You Need Is Love(邦題『愛こそはすべて』)"(1967年)のイントロにも使われている。1979年にはセルジュ・ゲンスブールがアルバム『フライ・トゥ・ジャマイカ』でレゲエ・バージョンを歌った。, ラ・マルセイエーズの歌詞には、複数のバージョンが存在するが、ここでは公式版のフランス語歌詞を掲載する[注釈 2]。, Roberto Alagna, ténor, interprète la Marseillaise dans l'orchestration d'Hector Berlioz - フランス国民議会公式サイト。, バチカンは国際連合非加盟。「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧も参照。, • 2 島嶼部はアジアにも分類され得る。また、隣国のトルコもヨーロッパに分類され得る。, 直訳すると「マルセイユの女」となってしまって不自然。"La Marseillaise armée"(マルセイユ軍)から"armée"が省略されたものと理解できよう。, 【W杯】「ラ・マルセイエーズ」熱唱するフランスがベルギーを粉砕 グローバルだからこそ国歌斉唱は必要だ, "La Marseillaise" entonnée par les députés à l'Assemblée nationale, French parliament sings La Marseillaise - BBC News, La Marseillaise interprétée par l’Académie de l’Opéra de Paris et le Chœur de l’Armée, 17.11.2015 - Wembley friendly match England - France national anthems, Roberto Alagna, ténor, interprète la Marseillaise dans l'orchestration d'Hector Berlioz, La Marseillaise - Présidence de la République, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ラ・マルセイエーズ&oldid=78274425.